雑記帳-或は作品カンショーの手引き

因みにカンショーを漢字に変換してみると、鑑賞、感傷、干渉等々、いずれが適当かは各位にお任せするとして、思いつくままに。



マイ・ストーリー     作品                2020.11.1 記
近頃は、こんな遊びに惚けている。
中国古代の俑に倣って陶土を成形焼成した素地に顔料で加彩するというものである。
例えば本の形に成形焼成し、アクリル絵の具で本物らしく仕上げて来訪者に見せると大抵は騙されて驚いてくれる。それを密かな楽しみとしているのだが、林檎も同じ手法である。
これらを「焼き物」と言い張るつもりは無いけれど一応1300度程の高温で焼成したものではある。
思案したのは、本のタイトルと作家名である。いかに活字のように仕上げるか、結局使い慣れた面相筆で書いてみたが存外うまくいったと思っている。

テーブルの上の本に林檎が乗っかている風景というものを想ってみた。
そこで試みに若い頃親しんだ本を並べて、タイトルを《マイ・ストーリー》としてみた。
シンボリックな果実である林檎各々は僕の読書感想文代わりである




プロフィール
        画像

港町十三番地

 


 若松のネオン街を徘徊していたのは、僕がまだ若かった頃のことだ。

ある店に美人で歌のうまい娘がいた。母親であるママの手伝いでよく顔を出していた。どういう事情かは知らないが、夜学に通う高校生でもあった。大学で文学を学びたいのだと、女の子らしい夢を語っていたが、十九というその顔は少し大人びて、更に艶のある歌声に魅せられた客も少なからずいたはずだ。

 訊いたわけでもないのに、父親の話をしたことがあった。

外国航路の船乗りであること、だから子供の頃からあまり一緒に暮らしたことがないの、次に会えるのは半年後なの、とその口振りにはなんの屈託も無かった。前後するようにして常連客の一人が僕の耳元で囁いたことはしかし、彼女の父親はなんでもその筋のモンで、今はオツトメ中なのだと。

 実際、酒の上の話を真に受けるほど野暮も無いけれど、言われてみれば彼女のオハコが、ひばりの「港町十三番地」というのも出来過ぎの感がなくもない。

しかし二つの話は、当時どちらも信ずるに足るだけの雰囲気が、この町には確かにあった



男は船、女は港


朝、目覚めるとそのまま寝床で小一時間、十年一日好きなモーツアルトを聴いている。ローテーションがあって今はアーノンクールのミサ曲。

仕事場では専らラジオである。演歌であれお喋りであれ流れるままにしている。以前「芸術新潮」に作家が仕事場で聴く音についてのページがあって、ラジオをかけていると言うのを散見した覚えがある。確かに段取りさえつけてしまえば作業の邪魔になるものでもないし、時には促進剤にもなる。

ある時、気紛れにダイアルをまわすと韓国語の歌が飛び込んできた。

トロットと呼ばれるものらしいが、海を渡ってくる音だから仕方ないとはいえノイズは混じる。それでも心惹かれる歌手がいて、詳しく知りたいと思うようになった。でも残念ながら皆目言葉が解らない。

折も折、こんな偶然がというようなタイミングで、新聞に彼女の半生を辿る連載が始まった。

 

沈守峰。シム・スボンと読む。数奇な運命と若者から老人まで幅広いファン層を合わせ持つ、韓国では特別な存在の歌手であるらしい。

その声は、はかなげでいて心に深く沁み入ってくる。

「愛しか私は知らない」や「ムクゲの花」等の代表作をはじめ、大半の曲が自作だというが、ジャズバージョンの「あの時、あの人」などは特に好きだ。

お陰で今は彼女のアルバムをクリアーな音で聴くことが出来るが、中にやや異質の日本の演歌を思わせる曲のタイトルがある。

この若松のような港町の人間には、一層近しい感のあるタイトルでもある。ダイレクトでドキリとさせられるような、それにはて、どこかで既に聞いたようでもある。それでもやはり、この比喩は巧みだと思ってしまう。「男は船、女は港」





 当時、アメリカの人達は暖かく迎えてくれたけれど、われわれ日本人には気負いもあった。
それも今では懐かしい思い出である。

白い花      其ノ一         作品                  2002.2.19記

 さて、今回は丁度12年前のこの月、1990年の2月にカリフォルニア州・ミルバレーで催されたカレンツ・ジャパンアート&クラフト展のことである。
 アメリカ側のコーディネーターは教育テレビプロデューサー等を経て、各地の美術館、博物館とも係りを持つジョイさんという女性である。前年にはそのジョイさんが来日、参加メンバーのアトリエを巡った。その直後のサンフランシスコ大地震である。てっきり中止と思ったのだが、町に影響は無く、第一そんなことにめげるアメリカ人ではないとのこと、なるほど。
 
 ミルバレーは、サンフランシスコから車で30分、その間に人気のリゾート地、サウサリートを置く。アーティストや俳優等の他、彼らを支援する裕福な人々が静養の場として住むようになった町で、人口は3万と聞いた。
 2週間の滞在はすべてホームステイ、従って僕も自身に二つのことを課した。一つは禁煙、一つは苦手のコーヒーを飲むこと。いずれも半月程前からの俄か仕立てである。
 参加メンバーは関東、関西からの人達も含め、総勢15名程。数名ずつに別れての分宿で僕の宿泊先はジョイさんの別荘。それが集まると各々の宿泊先の贅を極めたしつらいに皆、驚嘆の声を上げるのである。彼我の差は歴然たるもので、今更ながらアメリカの豊かさに圧倒される思いがした。
 ところで会場はアーティストや地域の人達によって作られた非営利のアーティザンズ・ギャラリーである。これは個人主義的傾向の強い日本(一説ではあるが、僕もときどきそう思うことがある)では、まず存在しない形態であろう。羨ましい。

 オープニングは大盛況だった。それとは引き替えに、用意された一皿のナッツにワインとミネラルウオーターのシンプルなスマートさに感じ入る。そして地元の人達による歓迎パーティーやサンフランシスコの日本領事館主催のレセプション等も用意され、相応の形は整っていたのである。ところが会期も進むにつれて参加者の中に鬱積してくるものがあった。我々の内なるアメリカの存在の大きさがそうさせたのか。目差したものは、望んだものは、手にしたかったものは・・・・・・。
 各々をこの地に連れてきたものは何だったか。来てみればその夢も醒めてしまったか。いや、そうではあるまい。僕たちはエネルギーに充ちた時間の中に居た。美術を取り巻く日米の状況からアメリカ社会、或いは日本人自身のこと、ジャック・ダニエルの水割りを呑みながら、連夜の議論である。ついに僕も禁を破ってタバコに手を出した。翌朝にはたちまちジョイさんからのクレーム。
コーヒーの方は、意外なことにカプチーノにはまってしまい、案ずることは無かった。ミルバレーやサウサリートのコーヒーショップ、その中庭や店先で柔らかな陽ざしを浴びながら飲んだあの味わいは今も忘れない。
 小さな催しや観光でバークレーや、カリフォルニアワインの産地ナパバレー(我々の世話のためにステンドグラス作家のケンは二週間の休みを取って、この町から毎朝やって来てくれた)にも出掛けた。
 サンフランシスコ市街へも度々バスで行っては楽しんだ。美しい街だけれど、ただ一つ驚いたことがある。シビックセンター辺り、市立美術館への道筋、おびただしい数のホームレスの人達、そのほとんどが黒人で、同時にその周囲の凄まじい量の紙屑、ゴミに出くわした時は思わず息を呑んだ。
 日本はバブル崩壊寸前の頂上、片やアメリカは不況の谷間で喘いでいた。湾岸戦争へと進んでゆく前年のことだったが、そんなことと関係があるとも思えぬ人間社会の底知れぬ一端を見せつけられたような思いに捕らわれたのは本当である。
 
 滞在も残り僅かという頃、ギャラリーのチーフ・ディレクターに呼ばれた。会場の「白い花」を指し、これは当ギャラリーのメンバー全員一致しての意見である、そう前置きして彼女は言った。
「今回の全出品作の中で、この作品がナンバーワンである」。
 一方は伝統的、一方は前衛的な日本の陶芸の中で居心地の悪さを味わってきた僕には、その言葉は素直にうれしかった。
 因みにこの「白い花」は布に見立てた部分の折り返しがひとつの見せ場である。通常、磁器の土ではそうすることが難しい。ではどうやったのか。当てたからといって景品が出るわけでもないけれど、解った方は是非ご一報を。
 別れの日、親しくなった気の良い二人のおばさんアーティストに予定を聞かれた。「折角だから4、5日ニューヨークへ」と答えた。「何故、あんなクレイジーな街へ行くの?ここにずっと居れば良いのに」。そう言って彼女達は同時に肩をすくめた。

                                                    この項つづく


白い花      其ノ二                              2002.2.26記

 ニューヨークへは早朝着いた。男女5人のミニツアーである。
早速、若いがしっかり者の女性二人が交渉。マンハッタンのホテルまで格安の料金で行くというのでリムジンにする。男どもはシートに反っくり返ってすっかりその気である。(ここが貧乏人の悲しさである)。
 ニューヨークの愛称はビッグ・アップル。僕もモチーフに林檎を多用するので親近感を持つ。単純なことである。
 街に入ると、朝食に並ぶホームレスの人々の列を散見する。ホテルに荷物を預け、まず街のコーヒーショップで朝食。折から通勤時間帯である。ひっきりなしに人の出入りがある。見ているとほとんどが、いかにも甘そうな菓子パンを1つ、2つ紙袋に、そそくさと立ち去る。そのどれもスーツに身を包んだビジネスマンである。少しあきれた。 

 ニューヨーク最初の観光は、スタテン島の往復である。ガイドブックには水上からマンハッタンの摩天楼群の眺めが素晴しい、それに25セントの片道料金で下船しなければ帰りはタダとある。通勤ラッシュの流れに逆行してウオール街を抜けると、フェリー乗り場は直ぐであった。
 思っていたより大きな船体が動き出して、デッキに出てみたが生憎の天候である。二月の寒々とした鉛色の背景に、世界貿易センタービルも自由の女神も朧気な輪郭を描くだけであった。しかたなく傍らの黒人の少年と記念撮影をして船室に戻った。彼はそのまま僕の側を離れない。年を聞くと13才、中学生である。学校は休みだと言う。暢気な会話である。
 少しの間があって、彼は僕にカネをくれと言う。僕は動揺した。我ながら自分の鈍感さに腹が立った。それで知らぬ顔を決め込んでみたが、彼は小声で繰り返す。「アイム ハングリー、アイム・・・・・」待つように言って、僕は船の売店へ行った。Lサイズのコーラとホットドッグを注文。窓越しに彼の怪訝な顔が見える。席に戻って手渡すと、困惑の表情である。
 ややあって「マネー、マネー」である。ポケットから数セントのコインをつかみ出す。これでは駄目だとばかり僕の袖を引っ張る。仕方なく付いて行くと、売店でジャムやミルクの掛ったパンと交換してくれとのこと。その分の代金を払って、再びデッキに出てみたが状況は変わっていない。船室を覗くと、彼が友達とおぼしき少年と仲良く並んでパンをぱくついていた。そうか、ニューヨーク子の朝食は甘い菓子パンだよね。悪かった。
 夜は記録的ロングランを終えようとする「コーラス・ライン」を観た。他に観たいものもあったが、ここは女性に譲る。結局、多少の時差と疲れで皆、半分居眠りである。 

 翌日からは各々、ニューヨークの街を駈回った。僕と弟は近代美術館、グッゲンハイム、ホイットニー、ソーホーと美術館、ギャラリーを巡った。中ではメトロポリタン美術館(ここには三度出掛けてみたものの、けたはずれの展示数で手に負えたものではないが)。アンドレ・マイヤー・コレクションのセザンヌ。それはそれまで僕が観たことのあるセザンヌとも違う、鮮烈なものだった。小林秀雄が「近代絵画」の中で書いているように、〈セザンヌの色は実に美しい〉。同室のゴッホもゴーギャンもルノワールも、〈セザンヌの文字通り眼を吸いつけるような色の力はないように〉思えた。
 一つに季節のせいか、林立するビルの中で、あれほど賑やかでエキサイティングだったはずなのに、僕のニューヨークの印象は平板なモノクロームの世界である。不思議なことだが、セザンヌのそれは、そこに忽然と顕われた唯一の美しい色彩を持つ風景として、僕の眼に焼き付いている。
 日本人だらけのティファニーやエンパイア・ステートビルの展望台へも行った。街のテンポに合わせて短い時間が過ぎて行った。サンフランシスコをもっと早く切上げて来るべきだったと、同行のT氏。旅を続ける女性陣と別れ、我々は帰国のため一旦サンフランシスコへ戻った。
 機中、卒業旅行だという日本人大学生のグループと隣り合わせた。挨拶代わりにミュージカルの話。「キャッツ」を観たという。ニューヨークの印象を聞くと、「まあ、あんなもんでしょう。東京のほうがずっと面白い」と事も無げである。気負いが無くもないが振り返ると、いい歳の男二人、T氏と弟が窓に顔を寄せ合って、未練がましく眼下のニューヨークの灯に別れを告げていた。

 帰国して程なく、ジョイさんからの手紙を受け取った。僕のアメリカでの個展の事で尽力してくれていたのだ。そして二通目の手紙と前後するようにして、ジョイさん急逝の報せがもたらされた。
 ガンと戦っていたのだと、その時知らされた。いつも我々に寄り添ってくれていたが、そんなことは微塵も感じさせなかった。そのことを想うと悲しく、そして無念でもあった。結局、僕の個展は実現しなかったけれど、そんなことはもうどうでもよかった。ミルバレーの別れの日の、ジョイさんのあのやさしい笑顔だけは、せめて忘れないでおこうと思った。

アメリカでの体験を、僕の脳はまるで牛の反芻胃と化したかのように、長い時間を掛けて振り返っていた。その間にも、そして今日までアメリカを廻る様々な出来事があった。
 クレイジーはニューヨークの街の中にも、そこへ駆り立てる我が心の中にも、そこここに在るように思えた。コーラ、ハンバーガーときて、アンディ・ウォーホールの「キャンベル・スープ缶」に至っては〝このブランドが眼に入らぬか〟とばかり、まるで水戸黄門の印籠のようではある。缶の中味はドル紙幣かミサイルでも詰まっているのか知らん。
 ケンは二度来日した。我がボロ家にも泊ったが、相変わらず静かで控えめな男だった。ステンドグラスをあしらった新築のマイホームの写真を見せながら、いつでも来いと言ってくれたが、何とはなし気は重い。アメリカにもいろんな人が居ることは分かっているつもりだが.....。それに僕の禁煙は8年になるから、どうやら今度こそ成功したようだけれど、それももう間に合わない。





人間のイメージはさまざまだけれど、磁器という固くて永遠なる素材に練り込んだものは、束の間のささやかなこの人生の断片。
伝えたかったものは、記憶の中のやさしい影像、返らない夢のひととき。
近頃、何故だか心ひかれるのは静かなもの。


はじめてのものに        作品                     2001.12.17記


 彼女との出会いは、或る秋の朝のことだった。話は旧くなる。我が家の庭は近くの高校の通学路に面していたから、その時間、制服姿の女生徒を見るのは別に珍しいことではない。彼女が奇異に映ったのは、庭の前で目を閉じ空を仰ぐように佇んでいたからだ。
 彼女は金木犀の香りに立ち止まっていたのだと言った。一瞬僕は何の事か判らずに空を仰いだそれまで我が家の庭にその木のあることすら知らなかったのだから呆れる。あの頃の男は大抵そんなものだと開き直るほかない話である。
 
そのことがあってから下校時、彼女は窯場にも立ち寄るようになった。彼女が三年生で美大を志望していた事も理由の一つだったかもしれない。絵や焼きものに関する話もしたと思うが、何よりも彼女が興味を持ったのは制作の題材を求めて僕が良く行く動物園のことだった。それで受験を真近かに控えた一月、二人で出かけた。
 冬の動物園とはなんと酔狂な、と思う向きもあろうが、彼女にはそんな気分を楽しむところもあったのである。それにこの季節の動物園を侮ってはいけない。一度出かけてみるといい。ほとんど人気もなく貸し切り状態というのも嬉しい。普段に増してのサービスで珍獣に出会うことも多い。極北の生き物たちの特別展示ではシロフクロウの妖しい流し目に足を止め飽きることがない。どんな些細なことにも心が反応する季節がある。彼女手作りのサンドイッチに熱い魔法瓶の紅茶。以前、何故陶器ではなく磁器を選んだのかと問われて、コーヒーよりも紅茶が好きといったような妙な比喩を並べたてた時のことを、彼女は覚えてくれていたのだ。
 その日、普段の大人しい紺色の制服よりも,、檸檬色も鮮やかなダウンジャケットの彼女がずっと大人びて見えたのは新鮮な驚きだった。その後、何度かは会ったかもしれない。彼女が東京で大学生活を送っているのは聞いていたが、それ以上のことは知らない。
 
 ある日一枚の絵はがきを受け取った。彼女からだった。しかしそれは懐かしいというよりいかにも唐突な感じを受けた。東京の消印はあるが、住所は記されていなかった。時の経過に記憶のどこかへ押し流されていた思い出が蘇ってきた。それにしても何故、今頃?当時、僕は未だ或美術団体に所属していた。それで東京での美術展に出品を重ねていたのだが、それを見たのだろうか?しかしそんなことなど一行も触れていない。それどころか今度帰ったら訪ねたいというだけの極めて簡単な文面である。
 彼女に何事かあったのか。単なる気紛れか。それにしても絵葉書の写真は、見知らぬ外国の風景である。
 僕はそれを手掛かりに何か読み取ろうとしたけれどいろいろな事が更に判らなくなっていくようでもあった。確かなことは、待つには充分過ぎる時間が経ったけれど、未だ彼女は訪ねて来ないということだけである。
 
今年、我が家の金木犀は十月十日、丁度あの日の朝ように風が渡り葉陰を揺らすたびにほのかな香りをたて始めた。たちまちのうちに花はオレンジ色に色付き、光を浴びてそれは文字道り金色に輝いて見えた。
 香りは一帯を包み込むように濃くなった。二十日間ほどの花の命は最後の二、三日をそれ自身のものなのか、それとも記憶の香りなのかと思わせるようにして終えた。そして十一月に入ると一切のものが消えてしまった。また来年を待つしかない。






当地北九州の博覧際に於ける、カレンツ「オーストラリアの現代アート」展の為にジェニファーとアン、二人の画家が来日した。陽気でエネルギッシュな彼女達との再会は、僕を三年前へと引き戻す。


海へ行こう
      作品                               2001.10.7 記    


 初めにカレンツについて少し。カレンツ(Currents)は英語で、流れ、海流、気流を意味する。1988年、北九州に日本人とアメリカ人の女性数名で、日米の工芸、美術の交流をめざして発足。
 オーストラリアのアーティストとの最初の出会いは1990年。翌年にはブリスベンの美術大学で教鞭をとるサムと知り合った。サムは数度の来日で個展も開いた。それらの交わりから生まれたのが三年前クインズランド州の二つの町を巡る展覧会である。大都市よりも小さな町、これもカレンツのスタンスである。
 
 クインズランド州、チルダーズはブリスベンから車で五時間、砂糖黍産業で発展し、歴史的建造物保存に熱心なナショナル・トラストの指定を受ける美しい町である。その町をあげて、毎年七月に開催されるインターナショナル・フェスティバルに我々は招待された。昨年はユースホステルの火災という悲報ももたらされたが今年は五万人を越える人出があったということである。
 さて、三年前のオーストラリア行は、木、紙、金属他様々な分野から総勢二十名余、二週間の滞在は総てホームステイによるものだった。僕にとっては初めての国である。
 太平洋戦争に於ける日豪の関係、或はアジア移民の急増、そのことによるのか白豪主義を掲げる政党ワンネーションの躍進、それらの断片的な情報はあった。だが到着した我々を迎えてくれたのは、僕をまるで親しい友人を訪ねたときのようなくつろいだ気分にしてくれる、そんな素敵な人達だった。そして豊かな国の豊かな人達という印象だった。
 ところでその翌日、スケジュールの第一日目、バンダバーグの美術館に出掛けたのは何か企図でもあったのだろうか。百数十年前のアボリジニーを対象にした写真展で観たキング・サンデーの眼が語りかけてくるものは何か。昨日我々を迎えてくれた人々、ヨーロッパから移り住み広大な森と荒野を切り拓いたであろう彼等の先祖とアボリジニーとの相克はどのようなものであったか。彼等の現在は先住の民が築いたものの上にあるだろうか。僕はその問いを抱えながら、この旅が続く予感を覚えた。
 展覧会とそれに先立つワークショップは素晴らしいものだった。それまでのサムや美術館長ナンシーさん達の尽力によるものである。会場一杯を埋めた人達との一体感は、いま得難いほどのものだった。物作りにとって、ここにはそれを観てくれる確かな人達がいると感じた。
 
 僕自身のことを少し書こう―日本人は何をするにも表現を押し殺そうとしたり、「甘さ」を貶め「塩辛さ」を尊ぶ傾向がある―とは音楽評論での吉田秀和氏の言である。我が陶芸界も例外ではない。僕のものは少なからぬ甘さを持っている。それらの中から彼の地の人達が、僅かでも僕の表現に共感してくれたことは嬉しい限りである。そのことが肥沃な大地に育まれた砂糖黍による世界一の砂糖消費国という、彼等の嗜好のせいではないと信じているが。
 陽気で親切で率直な人達とのチルダ―ズ、ウッドゲートでの日々。大地に根差して制作するアーチスト達。その一人クリスティンは尚も自分を捜す旅を続けるという。ヌーサでは八年振りで再会した夫君のデビットの歓待を受けた。彼曰く、「金は無いけれど時間はいくらでもある」と。日本にはその逆のいかに多いことか。またしても豊かさについて考えてしまった。

 この旅で僕が見なかった事、或は僕には見えなかった事は多くあっただろう。チルダースを去る日、サムが故郷に制作中という町の歴史を刻んだモニュメントのことを知った。そのためのアボリジニーや各国から入植してきた人々に係る丹念な聴取り、そして彼の父君の事。どの民族にも、どんな人生にもある痛みや苦しみ、喜びも悲しみもそれらすべてを分かち合い、共有しようとするかのような彼の美しい作品プランに僕は共感を覚えた。
 南半球は真冬であるはずのオーストラリアに吹く風に暖かさを感じながら、少し解ったような気がした。旅とは、自己へ還ることなのかと。そしてこの旅の終わりが近づくにつれ、彼らと僕との間もまた随分縮まったような気がしたのである。

 ペンギンサーファーはナンシーさんの元に引き取られていった。何度目かの来日をしたサムとは先々月、再会した。





いつもこの季節に蘇る記憶がある。思い出なのに初めての事のように思えるものがある。
今回は第2室から「人生の果実」を。


人生の果実       作品                            2001.8.27記

 「何故、林檎なの?」作品のモチーフについて、よく質問を受ける。説明や解釈といったものは、あまり好むところではない。それでいつも曖昧な口振りであるから、「みかんやメロンはどうです?」と果物屋もどきの御仁も出てくる。気の弱い僕は一瞬考えてはみるが、今のところ丁重にお断りすることにしている。

 林檎。それにしても不思議な果実である、と思う。
例えば、冒頭の問い掛けを、相手にそっくり返してみたとする。大方の答えはシンボル化された「アダムとイヴ」のそれである。セザンヌのリンゴも有名である。様々の意味付け、解釈が加えられているけれど、黙って観ているだけ、とはいかないもののようである。
 「初恋」で島崎藤村の林檎に出会ったのは中学生の頃。いまでも暗唱できる。〈まだあげ初めし前髪の/林檎のもとに見えしとき/前にさしたる花櫛の/花ある君と思いけり/やさしく白き手をのべて/林檎をわれにあたえしは/薄紅の秋の実に/人こい初めしはじめなり・・・〉

 中学時代といえば、同じクラスの、或る女生徒のことを思い出す。僕は白いカッターシャツに誤って墨を付けてしまった。夏休み間近の習字の時間である。彼女は、その時間の終わりとともに、渋る僕の身体からシャツを剥ぎとるや、自分の弁当箱のご飯を使い、その墨を落としてくれたのである。窓辺に眩しくはためくシャツの白さは今でも鮮明である。
 彼女の手際に茫然と見とれていた僕は、ようやく気づいて、ご飯を食べるように僕自身の弁当箱を差し出した。もちろん彼女は、箸を付けるはずもなく、昼休みが終わるまで、それはそのまま二人の間にあった。彼女は、今の僕の半分の若さで逝ってしまったけれど、そのささやかな出来事が、ここ何年も蝉時雨の中で決まって思い出されるのである。林檎に係るものは、他にも沢山あるけれど、僕自身リンゴマニアというわけでもなく、この辺りで止しておくが最後に一つだけ。

 こちらは今から丁度三十年前、ある結婚式での事。新婦の誕生時の紹介で、その時代の象徴として「リンゴの唄」が会場に流れた。
〈赤いりんごに/口びるよせて/だまってみている/青い空〉戦後直ぐ大ヒットしたという、その歌である。歌もまた不思議なものである。式自体は季節を異にするのに、この八月と結びつけるものは、その歌のせいだろうか。彼女も僕も戦後の生まれである。
 戦中戦後の、母から聞く彼女自身と家族の物語、人の死と生、闇の中の一瞬の光芒に似た疎開生活のこと、喜びと悲しみ。そして言葉にならない様々のもの。毎夏、語られる多くの戦争体験、人の数だけある戦争観、夥しい言葉の行き交い。はたして敗戦を境に、あるいはこの戦後半世紀の間に、人は何かを無くし、代わって何かを得ただろうか。それとも、初めからそんなものは持ち合わせていなかったとでも言うだろうか。
 あの日、花嫁だった彼女にも、三十年の時が流れた。人は人生は一瞬というけれど、一瞬こそが人生。

 記憶の中の、はためく白いシャツが今、僕の眼に映っている。その先を見上げると、いろんなものを吸い込んで、この夏もまた何事も無かったのかのように、「しん」として青い空がある。

 今日の午後、我が家の庭の木で、この夏初めてクマゼミに替わってツクツクボウシが鳴いた。
 八月が、夏が行こうとしている。






因みにカンショーを漢字に変換してみると、鑑賞、感傷、干渉等々、いずれが適当かは各位にお任せするとして、初回は先ず第4室から「LOVE」と「イエスタデイズ」について思いつくままに。


LOVE       作品                          2001.7.13記

 もう十数年も前になる。小雪の舞う冬の動物園に出掛けたことがあった。当然のことだが、ほとんどの動物がヒーターの効いた獣舎に引きこもる中、河馬も例外ではなかった。
彼はそのチョコレート色の巨体をガラス張りの部屋一杯に、身じろぎもせず、ほとんど雪さえ降っていなければ、時間が止まったかのような錯覚を抱かせるほど静かに呼吸をしていた。夏の水浴びとは対照的な姿に何か惹かれるものがあって、僕はスケッチブックにそのかたちを止めた。
 残念ながら作者の名前は失念してしまったが、大好きな句がある。「水中の河馬も燃えます牡丹雪」。あの冬の日からかなりの時間の経過があって、僕の心の中で動き出すものがあった。
 
「LOVE」、この作品の設定は単純である。山高帽を被った方が男、涙を流している方が女。表現するのは作者の感情でも、告白でも断じてないけれど、こんなにストレートなのは誰かに恋をしていたのかもしれない。では、涙の意味は何だったのか? それも失念してしまった。
 女性の涙については多少の物議を醸すことがある。曰く、「今どきこんな涙を見せる女性はいない」。曰く、「近頃では男と女の涙の位置があべこべである」。それは実際僕もそう思うけれど、男である作者のこれはささやかな願望なのである。





イエスタデイズ―過ぎ去りし日々      作品

 河馬一体のサイズは横26cm、高さ16cm。上記「LОVE」もほぼ同様。
通常、磁器は釉薬を掛けて千三百度ほどで焼成するが、これは施釉せずに同様の温度で焼成したものである。従って一般的な磁器の表面はガラス膜によって光を反射するが、この焼締めの白い磁肌は光を受け入れ影を宿す。原料である天草陶石の石の質感を持った、いわば素肌の磁器といったところである。

 タイトルについては、ビートルズのイエスタデイと間違われることがしばしばある。こちらはジェローム・カーン作曲のジャズのスタンダードナンバーである。僕はジャズにはまったくの門外漢だが一緒に仕事をしている弟のCDラックから時々つまみ食いならぬつまみ聴きをしていて知った。
女性歌手によく歌われているようだけれど、中ではしみじみとした情感でビリー・ホリディのそれが好きである。
人みなそれぞれにある"過ぎ去りし日々〟深刻になるのだけは苦手である。カセットプレイヤーも焼き物で出来ているが、大抵の人は本物と間違えて笑ってしまう。それで河馬の涙のことなど誰も忘れてしまうのである。― それでは次回は八月にでも。